山伏と忍者
大峰山をご開山された役行者が開祖と成った修験道は、原始(縄文、弥生、古墳時代)からの山岳信仰(さんがくしんこう)に、古代(飛鳥、奈良時代)道教(どうきょう、中国、朝鮮からの渡来人によって伝えられた、神仙思想、老荘思想、易、陰陽、五行、医学、占星の説など含む宗教)、仏教(ぶっきょう、仏陀創始の宗教、欽明天皇(きんめいてんのう)~571年(欽明32.4)の代、538年または552年、百済(朝鮮)の聖明王から朝廷(日本)に仏像、教典などが届けられた、仏教公伝)などが融合した民衆宗教(みんしゅうしゅうきょう)です。 

 修験者(しゅげんじゃ)は、山伏(やまぶし)とも呼ばれ、山林修行による呪術力(じゅじゅつりょく)の獲得を旨とし(修験道)、独自の儀礼によって治病、各種の祈祷(きとう)に従事しました。その起源は、奈良時代のはじめ、役小角(えんのおづの、生没年未詳、大和国葛城山に棲む、呪術をよくし、金峰山上で蔵王権現を感得、葛城山一帯から吉野、大峰を越え熊野まで、捨身の行を積む)を修験道の開祖とすることが多い。

 役小角は、日本古来の山岳信仰密教(雑密、ぞうみつ、道教、仏教含む)秘法加えて、新しい独自の宗教、修験道、を開き、これが全国に広まって行きました。護摩(ごま)を炊(た)き、呪文(じゅもん)を唱(とな)え、祈祷(きとう)を行い、難行(なんぎょう)、苦行(くぎょう)をして、神験(しんげん)を修得すると言われています。

 密教(みっきょう、仏の境地に達した者にしか開示されない秘密の教え)については、平安時代、空海(弘法大師)が開いた東密(とうみつ、東寺、真言密教)と最澄(伝教大師)が開いた台密(たいみつ、延暦寺、天台密教)を、純密(じゅんみつ)と呼んでいます。

 平安中期以降、熊野、吉野を中心とする修験者(山伏)の活動が活発化し、熊野は鎌倉末までに寺門派の聖護院を中心とする本山派に組織化されました。出羽三山(でわさんざん、月山、羽黒山、湯殿山、山形)、四国石槌山(しこくいしずちざん、愛媛)、九州英彦山(きゅうしゅうひこさん、福岡、大分)などの山岳でも宗派が形成されました。

 山伏は、熊野大峰山修行を終えて、本山、本寺から院号、坊号、法印、権大僧都などの各種補任を受け、身分保障されました。補任料は、山伏の加持祈祷など日常活動に対する檀家支援によって賄われました。近世(江戸時代)には、平安末に成立した、本山派修験(天台宗系、聖護院門跡、熊野から吉野へ、順峰)と鎌倉末に成立した、当山派修験(真言宗系、醍醐寺三宝院門跡、吉野から熊野へ、逆峰)の二派が競合していましたが、1872年(明治5年)、明治新政府による神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により修験道廃止、解体されました。戦後は、地方に帰農した昔の山伏とその一派が、再び独自の宗教的な活動を行っています。

忍者(にんじゃ)は、鎌倉時代から江戸時代、大名や領主に仕え諜報活動や暗殺を仕事としていた、個人ないし集団の名称です。伊賀(いが、三重、西部)と甲賀(こうが、滋賀、南東部)の忍者は有名ですが、様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を忍具、逃走術を含む種々の技術を忍術(にんじゅつ)と呼んでいます。

忍術には、修験者(山伏)が用いた、九字護身法(くじごしんぼう、九字を切る、九字(臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前)の呪文を唱え、手印を結び、悪鬼、怨霊から身を守る、道教)、山嶽兵法(さんがくへいほう、亀六の法、敵が攻めて来ると、亀が手足を甲羅(こうら)の中に入れるように、山中に身を隠し、敵が疲れるのを待って、襲撃する、甲賀)などもあります。

伊賀者(いがもの、伊賀衆、忍者軍団)が大きな脚光を浴びたのは、織田信長本能寺(京都)の変で倒れた、1582年(天正10年)6月の時で、徳川家康は信長に招かれ、40人余りの家臣と共に、和泉(いずみ)国、堺(さかい)の見物に出かけていました。京都の商人茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)から信長の訃報を聞き、三河への最短経路である伊賀路によって帰国しようとしました。甲賀から伊賀の山中を通って伊勢に抜け、海路で三河へ帰還したのですが、最大の難所伊賀でした。また、伊賀には、金属武器製造の技術集団、渡来人(朝鮮、中国)がいたことは、伊賀一宮敢国神社、あえくにじんじゃ)の祭神(金山比咩命、かなやまひめのみこと、少彦名命、すくなひこなのみこと)が、渡来系鉄の神であることから想像されます。鉄製造のためには高温が必要であり、それは忍者狼煙(のろし)、火術(木炭、硫黄、硝石などが原料の火薬使用、敵の城内で火を放つ術)とも関連しています。また、は表裏一体であり、甲賀者(薬草、和漢秘薬)も巧みに使っていました。は山岳で修行する山伏と密接な関係があると言われています。

 この伊賀越えの時、家康は何度も一揆衆に襲われましたが、伊賀者(200人)、甲賀者(100人)に警固(けいご)されたと伝えられています。徳川実記(とくがわじっき)によれば、「これを神君(しんくん)伊賀越えといい、御生涯艱難(かんなん)の第一とす」とあるように、家康にとっては生死にかかわる厳しい逃避行となっています。その後、伊賀者は伊賀越えの功績により、伊賀組同心(どうしん、警護、護衛)として徳川家に雇われています。服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり、伊賀組屋敷前が江戸城半蔵門)は、その組頭(くみがしら)に任じられています。

 江戸泰平な時には、伊賀と甲賀の忍者は、早朝より畑を耕し、午後より先祖から受け継いだ兵法の訓練をし(傭兵、ようへい)、通常の百姓大差のない生活を送っていました。

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