この伊賀越えの時、家康は何度も一揆衆に襲われましたが、伊賀者(200人)、甲賀者(100人)に警固(けいご)されたと伝えられています。徳川実記(とくがわじっき)によれば、「これを神君(しんくん)伊賀越えといい、御生涯艱難(かんなん)の第一とす」とあるように、家康にとっては生死にかかわる厳しい逃避行となっています。その後、伊賀者は伊賀越えの功績により、伊賀組同心(どうしん、警護、護衛)として徳川家に雇われています。服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり、伊賀組屋敷前が江戸城半蔵門)は、その組頭(くみがしら)に任じられています。
江戸の泰平な時には、伊賀と甲賀の忍者は、早朝より畑を耕し、午後より先祖から受け継いだ兵法の訓練をし(傭兵、ようへい)、通常の百姓と大差のない生活を送っていました。